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江戸前の魚たち その2

2017/03/03
江戸前の魚たち その2

江戸前の魚たち その2









にっぽんおさかな文化あれこれ  第三回


好評をいただいてております「食」に関するコラムシリーズ、第二弾の「魚」!「にっぽんおさかな文化あれこれ  第二回」では縄文時代から江戸時代にかけて、江戸湾(東京湾)にどのような魚が住んでいたのか、ご紹介いたしました。第三回は、実際の魚を例に江戸の漁業についてお話ししてまいります。



前回、江戸時代に入り江戸の漁業が盛んになりいろいろな魚が獲れ食されるようになった理由を書きましたが、今回はその具体的なお話をしてみたいと思います。


関西からの漁民移住とシラウオ

 魚好きの家康は江戸の地元漁民を大切に扱う政策をとったようですが、彼らの漁は技術的に遅れていたようで、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)佃村・大和田村の漁民を江戸に呼び、隅田川河口に住まわせ、鉄砲洲前の干潟を与えました。

 漁民たちはこの干潟を自分で造成し故郷佃村の名前をとって「佃島」と名づけ、シラウオを主にした漁業を行ってきました。その佃島には1646年に摂津国佃の住吉社の分霊、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)の分霊、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康の霊)の分霊を祀る住吉神社が創建され、現在に至っています。
 
 さて、そのシラウオですが佃島漁民は幕府から漁業特権をあたえられ、3人ずつ2艘(そう)の船で行う旋網漁(まきあみりょう)の一種である六人網という漁法で獲り、幕府に毎日献上していましたが、残りを自家用の保存食として塩水で煮て食していました。これが、醤油・砂糖などを入れた名物の煮魚となり、佃島の名前から佃煮と呼ばれるようになりました。

 前回、摂津国佃村の漁民が小魚を塩水で煮て保存食としていたのが佃煮の起源と書きましたが、各地の漁民がこのような調理方法で保存食として食しており、たまたま摂津国から移住してきた江戸佃島の漁民が佃煮という料理として確立したので、ここが発祥の地だと言われているのではないかと思います。
 
 尚、現在でも佃島には170年続く3軒の佃煮屋さんがあります。住吉神社と併せてちょっと散策してみては如何ですか!


紀伊半島からの移住

 徳川幕府初期(17世紀初め)紀伊半島からも漁師をはじめ漁業関係者が房総半島や三浦半島にやってきました。紀伊半島と房総半島は海路でみると黒潮にのると比較的簡単に行き来ができることから、紀伊半島から多くの漁民が移り住んだり、出稼ぎにやってきたりしたようです。

 房総半島と紀伊半島の関係は、

① 房総半島には「白浜」「勝浦」といった紀伊半島と同じ名前の地名がいくつかあります。

② 房総半島の「なめろう」*1という料理と紀伊半島の「沖なます」*2という料理はよく似ています。

③ 房総半島の最先端では400年位前から捕鯨が行われ、現在は南房総市和田漁港が基地となっていますが、紀伊半島最南端太地町も400年位前から捕鯨基地となっています。

④ 醤油の醸造技術が紀州湯浅から銚子に伝えられ、野田に伝わり現在に至っています。

などといったことから、非常に密接であったことが想像できます。

 紀州から出稼ぎに来た理由は、大量のイワシを漁獲し綿作の肥料となる干鰯(ほしか)を生産することでしたが、同時に大規模な漁業技術をイワシの主漁場の外房(房総半島太平洋岸)だけでなく江戸湾沿岸・関東の漁村にも伝えることになり、急激に人口が増加していた江戸を支える関東各地の水産業の発展に大きな影響を与えたようです。


最高の魚 タイ

 平安中期から室町時代にかけて淡水魚が好まれ、コイ・アユ・サケ・マスが重要な魚であったが、特にコイが最上とされていたようです。その後、水軍が力をつけ地域間の情報・技術等の伝達が盛んになり、クジラが重要な魚と位置づけられ、江戸時代に入るころにはタイがコイに代わって、最上の魚とされるようになりました。
 
 タイというと瀬戸内海の明石鯛・淡路鯛が「桜ダイ」と呼ばれ最高のタイとされていますが、これは江戸時代から現代まで変わらないようです。が、江戸においても「葛ダイ」という「桜ダイ」と同格のタイが獲れていました。富津から館山へ行く途中の、萩生(はぎゅう)というところで葛網漁という漁法で獲っていたことから「葛ダイ」と呼ばれ、徳川幕府ではタイの需要が多いことから、このタイに「将軍家御用」の指定をし、この漁師たちに特権を与えていたとのことです。
 この萩生の葛網漁のタイも、残念なことに東京湾沿岸のコンビナート建設で、昭和40年頃にはこの海域にはこなくなってしまいました。

 徳川家康が江戸に幕府をひらいて270年、東京と名前を変えましたが人口は増加し続け、世界有数の大都市に発展しました。この間、東京湾(江戸湾)では多くの魚介類が獲られ、江戸近郊からも流通技術が開発されたことでいろいろな魚介類が運ばれ、江戸前料理が確立されてきました。
 
次回はタイやシラウオ以外の江戸前の魚たち、流通の基礎となった魚河岸や江戸前料理について述べてみたいと思います。

*1:アジ・イワシ・トビウオ・サンマなどの青魚を三枚におろし、味噌と薬味と一緒にして粘りがでるまでたたいた料理。この「なめろう」を焼いたものを「さんが焼き」という。

*2:獲れたての魚をそのまま船の中で三枚におろし、ねぎ・しょうがといった薬味と一緒にたたき、お酢や味噌などを加えてあえた料理。


執筆者: 食いしん坊親爺TAKE


【参考文献】
渡辺栄一(1984)『江戸前の魚』草思社.
冨岡一成(2016)『江戸前魚食大全―日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで』草思社.

【参考サイト】(2017年2月28日アクセス)
Wikipedia.”住吉神社“

Wikipedia.”遊歩酔々”

紀伊半島と房総半島の先にはそれぞれ「白浜」・「勝浦」という地名があります。

Wikipedia.”江戸の人口?


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